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お墓の歴史 いつからあるの?

記事作成日:2023-03-27

ご覧いただいありがとうございます。株式会社ムラカミ石材、事務員の原です。

現代では様々な供養方法があり、永代供養、海洋散骨、樹木葬、手元供養そして、お墓があります。やはりお墓に入りたい、納骨してあげたいという気持ちが大きいのではないでしょうか。今日はいつからお墓があるのか、お墓の歴史についてお話しさせて下さい。

お墓を建てる理由

お墓を建てる理由としては大きく分けて3つあります。

〇1つめは、お墓は“終の棲家”とも呼ばれてます。故人様へ最後の家を建てたいという気持ちは誰しもあるのではないでしょうか。

〇2つめは、ご遺族の心のよりどころができます。大切な人を亡くした時は想像もできない悲しみですが、時間とともに落ち着き、お墓参りの際は故人様を身近に感じることができます。

〇3つめは、代々のご遺骨の行き先が確保できます。ご子孫が将来お墓を建てる手間や費用が省かれるだけではなく、自分たちが将来入ることのできるお墓があると知ってるだけで安心できます。

 

お墓はいつからあるの?

歴史は古く、縄文時代から埋葬の文化がありました。

【縄文時代】

亡くなられた方をそのまま、素掘りの穴の中に入れて埋葬する“土坑墓”が多くみられました。そして、お母さんのお腹の中にいる赤ちゃんのような、しゃがみ込んだ姿勢の“屈葬”という埋葬方法を行っていました。

また、ご遺骨の胸の上に土器が置かれたものも発見されていることから、魂が身体に戻ってこないために行っていたといわれています。

だた、この時代では埋葬された土の上に石を置く文化はまだありませんでした。

 

【弥生時代】

弥生時代になると、村から少し離れた別の場所に集団の墓地を作って埋葬していました。個人が生き返らないことが分かったのと、手足を折り曲げる屈葬にする時間的余裕が無くなった為、故人の手足を伸ばした“伸展葬”が多く見られました。

弥生時代で1番多く見られたのは“土坑墓”です。その次に少し立派な“木棺墓(もっかんぼ)”、1番立派な“石槨墓(せっかくぼ)”があります。

木棺墓は、木の板を組み合わせて作られた棺のお墓です。この時代、朝鮮から木の棺に故人を納める文化が伝わったといわれています。

石槨墓は、小さい石を積み重ねて、その上に大きな石を積み作られた空間に故人を埋葬する方法です。石槨墓は位が高い方のお墓でした。

 

【古墳時代】

名前の通り古墳のお墓が有名です。古墳は、土が大量に高く盛られて作られていました。1日最大2,000人の人々が働いて15年以上かかっていたといわれています。

古墳には、王様や貴族だった方が収められましたが、一般庶民のお墓は弥生時代と変わりませんでした。

 

【飛鳥時代】

“殯(もがり)”といって本葬するまでの間、故人に別れを惜しみ腐敗し、白骨化するまで安置しておく儀式がありましたが、飛鳥時代では殯を禁止し“火葬”するようになりました。

しかし、火葬も上流階級の人たちのみで、一般庶民はお墓を作らず“風葬”と呼ばれる、故人を荒野で土に還す埋葬方法をとっていました。

 

【奈良時代・平安時代】

この時代の埋葬方法やお墓については詳しく解明されていません。

平安時代では、死を穢れとされて死に目に会ったり、故人に触れることを嫌っている時代でした。関係のない人は故人に触れてはいけない、触れた場合は、一定期間他人と接することを避けて清めを行うといった習慣がありました。

その為、風葬の文化はまだ奈良時代では多くみられていました。しかし、真言宗の開祖“空海”が都を訪れた際、疫病と野ざらしの故人を心配し、庶民に土葬を教えたといわれています。

 

【鎌倉時代】

鎌倉時代から浄土真宗や浄土宗が一般的に普及し、火葬の文化が広く伝わりました。しかし、火葬場が多くあったわけでもなく、火葬の技術が未熟なことから、完全に焼却することが難しかったため、土葬と火葬は半々だったといわれています。

そして、埋葬された上に石を置く文化が始まりました。貴族や偉人が亡くなれば墓石を建てる習慣はありましたが、しかし、一般庶民は河原石を積んだもののみでした。

 

【室町時代】

室町時代では「やぐら」が有名なお墓としてあげられます。やぐらとは、横穴式の納骨堂や供養窟として作られていました。3000基以上が確認されていましたが、現在では、土砂崩れや、住地開拓で壊されてしまったものも多く、残ったやぐらも風化で、苔むした洞穴にしかみえませんが、建立当時は、豪華な内装で多くの副葬品も収められていました。

また、現代でもよく見られる「五輪塔」が作られ始めたのもこの時代です。

そして、関東地方では「板碑(いたび)」といい、石材を板状に加工し、古代インドのサンスクリット語の梵字で、仏や菩薩などの本尊を表す種子や、建立の趣旨、建立の年月日の紀年銘などを刻み供養する石製の塔婆が建立され始めました。板碑の作成は室町時代にかけて、全国へと広がりをみせていきました。

 

【戦国時代】

戦国のカリスマとよばれている織田信長のお墓は全国で15か所以上発見されています。徳川家康は4か所、真田幸村は10か所以上。偉人のお墓は、遺体を埋葬したお墓以外にも、髪の毛や爪、分骨の一部が各全国に納められています。

お侍さんや、裕福な家庭の人などは、小さな「一石五輪塔」という、本来の五輪塔は各部を別々の石で作りますが、全体を1つの石で彫ったものを置いて供養していました。庶民はみんなで1つの五輪塔を建てて供養するようになりました。しかし、これらはあくまでも供養塔でありお墓ではありません。この頃の記録はあまり残っておらず、山や川に捨てていたものや、各敷地内に土葬されていたなど諸説あります。

 

【江戸時代】

江戸時代では、「檀家制度」がはじまり、庶民がお墓を建てるようになりました。檀家制度とは、ある寺院がそれぞれの檀家の葬祭供養を独占的にとり行うことを条件として結ばれたお寺と檀家の関係をしめします。幕府の宗教統制政策から生まれた制度です。墓石の形や大きさも様々で、身分や階級によって異なっています。碑形や方柱形などのシンプルな形は庶民が、大型の碑形や塔形は藩主や上級階級の墓石とされていました。

江戸時代後期からは、墓石に戒名や没年月日などの文字を彫刻するのも普及してきました。

 

【明治時代・大正時代】

明治時代になると、檀家制度が廃止され、宗派にとらわれない墓地が登場するようになりました。土葬が盛んであった地域にも、伝染病対策として火葬場が設置されることになりました。また、お墓に関しての初めての規制として明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が作られ、墓地、火葬場とも許可制になりました。治安維持、衛生面から規則化したものです。

そして、これまでの時代はお墓は一人一人入るものでしたが、現代のように一つのお墓を何世代にもよって受け継ぐようになり、手の届かなかったお墓も一気に全国へと広がりました。地方でも、火葬が一般的になってきましたが、昭和初期までは、人口の少ない地域や島などでは、土葬と火葬が並行して行われていました。

 

【昭和時代】

明治時代に定められた「墓地及埋葬取締規則」が廃止され、「墓地、埋葬に関する法律」や「墓地、埋葬に関する法律施行規則」が定められます。「〇〇家の墓」と彫刻されたお墓が一般的になってきたのも昭和時代からです。30年代の高度経済成長期以降から、現代とそう変わらず誰でも気兼ねなくお墓を建てられるようになりました。生前にお墓を建てる「寿陵(じゅりょう)」が増えたのもこの時期からです。各地で、霊園、墓地が整備されて、故人やご先祖様に対してお墓を建てることが習慣化していきました。

死を穢とされてる時代もありましたが、縄文時代から故人を埋葬する文化があり、大切だった人が亡くなる悲しみや供養しようという考えは、埋葬方法や時代が違えど、共通なのですね。現代では、きちんと供養してくれる時代・環境に今一度感謝しなければなりません。

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